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特集「新型コロナと情報」:新型コロナのリスク・コミュニケーション

はじめに

新型コロナウイルスの世界的流行は私たちの日常生活をすっかり変え、在宅勤務やオンライン授業が当たり前の日常となった。世界の総感染者数は約1500万人、死者数が63万人超、日本の累計感染者数も2万9022人、死者数994人(2020年7月23日時点、世界全体に関するデータはジョンズ・ホプキンス大学、国内分はNHK、JX通信社等の集計による)に達した。2002年から2003年にかけて流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)、1918~19年に世界で少なくとも死者5000万人(米国疾病予防管理センター)を出したとされるスペイン・インフルエンザなどとしばしば比較されるが、相当のインパクトを中長期的に与えることになるだろう。

新型コロナウイルスの危機はさまざまな課題を浮き彫りにした。日本や台湾、韓国、米国、ドイツをはじめとする欧州諸国、オーストラリアなど多くの国で感染拡大を阻止するため、程度の差こそあれ、都市封鎖や飲食店閉鎖などの措置に踏み切った。こうした措置は民間企業や飲食店などに営業停止の協力を求めるため、経済に深刻な影響を与え、市民には総じて不人気の政策となる。だが、市民の不満を気にして、人気取りとばかり時期尚早の解除判断をしてしまえば、再び感染拡大を招き、経済的にはかえって一層の打撃を与えかねない難しい判断が求められる。

そこで、重要なのは、政府や政治指導者が市民との間で行うリスク・コミュニケーションである。政府の対策に市民の協力を得るためにも、徹底した情報公開と丁寧な説明により正確な情報を共有し、政府と市民、社会が信頼関係を築くとされるリスク・コミュニケーションは、新型コロナウイルス危機のような危機管理対策上、極めて重要と指摘される。良好なリスク・コミュニケーションがあれば、政府や政治指導者、市民との間には信頼関係が成立し、都市封鎖のような政策への理解も得やすく、政策履行のためのコストは低くなる。他方、信頼関係を築くことに失敗すれば、理解を得るのに多大の政治コストがかかり、場合によっては政策履行のコストは莫大になる。実は日本は3.11東日本大震災という戦後最大級の災害時にこのリスク・コミュニケーションの重要性に直面していた。果たして、新型コロナ危機のリスク・コミュニケーションはどうだったのだろうか。

本稿では、世界の対応、とりわけ国際的に評価が高いドイツの対応を観察することにより、日本の対応やリスク・コミュニケーションの有り様を考える比較の視座を得たいと考える[1]。

ドイツ政府の対応

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が進む中、ドイツは都市封鎖(ロックダウン)を実施した。爆発的な感染拡大のあったイタリアやスペインのような医療崩壊は防ぐことができ、感染者数や死者数を抑制し、ドイツは欧州内のみならず、世界的にも比較的首尾よく対処してきたという評価を本稿執筆時点(2020年7月)で受けている。

ドイツ政府はどんな対応をとってきたのだろうか。ドイツ政府資料やドイツ国内外の報道を基に、新型コロナウイルスへの対応を見てみると、概略次の通りになる。

新型コロナウイルスの感染が深刻化して以降、ドイツ政府は主に防疫対策と経済対策、リスク・コミュニケーションの施策を履行してきた。主な防疫対策については、時系列に概観すれば、次の通りである。まず、連邦政府は大規模なPCR検査の導入とともに、接触制限措置や学校、教会、飲食店などの閉鎖を含む都市封鎖(ロックダウン)を含むガイドラインを3月12日に発表した。そして、同月16日に拡大防止のため、フランス、オーストリア、スイス、デンマーク、ルクセンブルクとの国境閉鎖に踏み切った。さらに、連邦と州政府の合意に基づく全土統一の新ガイドラインを同月22日に発表し、都市封鎖の違反者に対し罰金や懲役刑を含む刑罰を定める強い対策となった。

並行して、連邦保健省傘下のロベルト・コッホ研究所の専門家による判断を仰ぎつつ、連邦政府は、PCR検査の強化などの基本方針を決定していった。PCR検査件数は順次引き上げ、7月時点で週110万件程度(ロベルト・コッホ研究所のウィーラー所長)を実施し、世界でも高水準の体制になっていることを明らかにしている[2]。

こうした施策が功を奏し、ドイツは欧州の中ではスペイン、イタリア、フランスなどと比べて比較的少なく、PCR検査の迅速な実施や接触制限措置などにより感染拡大を成功裏に防ぎ、医療崩壊も防いで手堅い対応だったという国際的評価が一般的である[3]。これを受けて、ドイツ政府は5月13日に国境閉鎖を段階的に緩和し、6月中旬までに全面解除した。欧州連合(EU)の決定に従い、ドイツも日本からの渡航を7月から再開可能になった。だが、本稿執筆時点で日本が入国を認めていないため、相互主義の観点から日本の対応待ちの状態であり、「ドイツから日本への渡航者への入国制限緩和が合意に至るまで、当面、日本からドイツへの渡航者の入国制限は継続される」とするドイツ側の声明には日本側への不快感がにじむ[4]。

次に、経済対策では国内向けの給付金支給、緊急予算・新規国債発行が挙げられる。個人事業主や零細企業には3カ月分の一括給付として最大9000ユーロ(約110万円)、従業員10名までの企業は最大15000ユーロ(約180万円)の給付金を支給するほか、緊急予算措置として総額3533億ユーロ、保証枠は総額8197億ユーロのかつてない規模の経済救済措置が打ち出され、さらに新規国債の1560億ユーロが承認された。

さらに、EUレベルにおける対応策として、ドイツ政府はフランスと共同で、新型コロナウイルスで被害を受けた欧州の地域や産業を支えることを目的として、EUとして7500億ユーロ(約92兆円)の復興基金を設立する合意にこぎ着けた[5]。英国のEU離脱後も、独仏両国のリーダーシップにより、EUレベルでも新型コロナウイルス対策に結束して取り組む姿勢をアピールする狙いもあるであろう[6]。

ドイツのリスク・コミュニケーション

ドイツの一連の対応策の中で、とりわけ注目されたのはリスク・コミュニケーションである。メルケル首相は3月18日にテレビで演説し、新型コロナウイルス感染症対策について次のようにテレビ演説で呼びかけた[7]。メルケル首相は、この度の危機が「ドイツ統一、第2次大戦以来の試練」であると事態の深刻さを訴えた上で、感染拡大を阻止するため、国境封鎖や移動制限、飲食店閉鎖などの措置が不可欠であると説明し、「移動の自由を苦労して勝ち取った(東ドイツ出身の=筆者注)私のような人間にとって、こうした制限は絶対に必要な場合にのみ正当化される」と理解を求めたのである。その上で、感染リスクの危険を冒しながら、治療の最前線に従事する医師や看護師に対する心からの感謝を述べるとともに、「感謝される機会が日ごろあまりにも少ない方々にも、このような危機にあって、スーパーのレジ係や商品の補充担当として働いて、社会機能を維持することに貢献していることに対し、心から感謝したい」と述べたのである[8]。メルケル首相は状況の厳しさを明確に語るとともに、行き届いた言葉を紡ぐことによって市民への共感を示し、市民に寄り添う姿勢を示した。また、食品や日用品は十分に供給されており、買い占めを控えるよう呼びかけた。

このテレビ演説は、ドイツ国内だけでなく、国外でも広く報道され、日本においても「シェアされる首相演説」[9]と取り上げられるほどだった。この頃、首相官邸に程近いスーパーで食品や日用品を買い、市民とともにレジに並んで、カード払いするメルケル首相の様子が大衆紙によって報道された。買い置きすべく多めに買物をする様子もなく、通常程度の買い物をする首相の姿は、ドイツ市民にも好感をもって受け止められた[10]。

そのことは、世論調査においても、メルケル首相は新型コロナウイルス対策で「よく仕事している」と高く評価すると回答した市民が85%に達したことからも裏付けられる[11]。政府の対策に市民の協力を得るため、リスク・コミュニケーションは、徹底した情報公開と丁寧な説明により正確な情報を共有し、政府と市民、社会が信頼関係を築くことを目的であり、危機管理対策上、極めて重要だ。政府が市民に対し、日常生活上の判断材料となる正確な情報を積極的に提供することにより、市民や社会が政府に信頼を寄せれば、政府の政策に対する市民の協力は自ずと得やすくなる。結果として、政策の履行がスムーズになり、そのコストは低くなるからである。ところが、それに失敗すれば、市民の協力が得られないばかりか、混乱が発生する可能性を排除できず、政策履行のコストは大きくなってしまう。

メルケル首相は政界入り前、理論物理学を修めた後、量子化学で博士号を取得した自然科学の研究者を務めていたこともあり、主要国の政治指導者の中でも、論理的思考力に優れていると評価されてきた。ロベルト・コッホ研究所による感染症対策のブリーフィング内容も正しく理解し、事態の深刻さも理解していたからこそ、市民に率直にその深刻さを伝えるとともに、共感を示すことにより、政府の施策への協力を引き出そうと考えたと思われる。その意味において、メルケル首相はある程度、奏功したと言えるだろう。

こうした努力により、国内政治状況も大きく変容した。中東から押し寄せた百万人近い難民を受け入れた難民政策に対する厳しい国内批判により、「メルケル時代の終わりの始まり」と追い込まれていた危機以前の状況から、メルケル首相は事実上、影響力と求心力をかなりの程度取り戻したのである。経済活動は徐々に再開したが、国民の多くは第2波がいずれ襲うと広く認識し、状況次第では、接触制限や飲食店閉鎖などの都市封鎖、国境閉鎖などの措置を再開する可能性があると考えている。

世論調査機関Forsaによる2月15日と7月18日の世論調査結果を比較すれば、最大与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の支持率は27%から38%へと11ポイントの大幅上昇を示した。背景には、新型コロナウイルス危機におけるメルケル首相の手堅い政治手腕を再評価する声がある[12]。連立与党の社会民主党(SPD)は14%で変わらず、他の野党から満遍なく支持を奪った形である。

2012年のシナリオ

ドイツ連邦政府の効果的なリスク・コミュニケーションを考える上で、もう一点、特筆すべき事情がある。

2002年から2003年にかけて中国南部から世界的に感染が広がった重症急性呼吸器症候群(SARS)等への対応を教訓に、連邦政府の委託によりロベルト・コッホ研究所などが2003年に自然災害や感染症発生などの非常事態に市民を保護する施策をまとめ、連邦議会に提出した『住民保護におけるリスク分析報告書2012』(Bericht zur Risikoanalyse im Bevölkerungsschutz 2012)である[13]。この報告書は、甚大な被害が見込まれる非常事態を想定し、その被害や損害を最小限にするための対策を講ずることを目的とする[14]。この中で、同研究所は、ドイツに大きな被害をもたらすシナリオとして、SARSウイルスの変種である「Modi-SARS」(変種SARS)の世界的流行(パンデミック)を想定した[15]。この「Modi-SARS」は潜伏期間が2~14日間で、発症すると、発熱、乾いた咳、呼吸困難などが起こり得るとし、致死率は1%程度だが、65歳以上は50%と高くなる、とされていた。お分かりのように、この想定は、今般の新型コロナウイルスと非常に似ており、あたかも新型コロナウイルスの発生を予見していたかのようである。事実、このシミュレーションは国内外に波紋を広げた[16]。

このウイルスに対する対策は、感染者10名が死亡してから始まると想定する。そして、同研究所のシミュレーションの結果、411日にわたる第1波で2900万人、280日にわたる第2波で2300万人、350日にわたる第3波で2600万人がそれぞれ感染し、これら3波により少なくとも750万人が亡くなるとされた[17]。ドイツの人口は約8320万人なので、9%に相当する市民が命を落とす深刻な事態となることを想定したのである。感染拡大が繰り返す背景には、第1波が収束すれば、市民の気持ちが緩み、十分な対策を取らなくなるためであると想定した[18]。こうした最悪の事態を想定し、ドイツ政府はその損害を最小にするための対策を進めてきたのである。

上述のように、メルケル首相をはじめとするドイツ連邦政府は、新型コロナウイルス危機を予見していたようなシミュレーションを想定した同分析報告書を念頭に置き、対策に当たっていた。メルケル首相が演説において、第2次大戦以来の試練であるという認識に立ち、市民に対し、必要な場合には違反者に罰則を科すとした厳しい覚悟と政府への協力を求めた背景には、同研究所による最悪の事態に備えたシナリオに基づく確信があったからであり、その周到な備えは8年前から始まっていたのである。

日本への示唆

他方、日本のリスク・コミュニケーションはどうだったのだろうか。

新型コロナウイルスについては、2019年12月に中国の武漢で初の感染症例が報告され、翌2020年1月に初の死者を確認、中国政府による武漢の封鎖と続いた。世界保健機関(WHO)が緊急事態(Public Health Emergency of International Concern)を宣言したのは同年1月30日のことである。その後、2月下旬までにイタリアで外出制限、米国で全土感染の警告が出されるなど、感染拡大は世界規模で進んだ。これに対し、同年春に検討されていた習近平・中国国家主席来日、同年夏に予定された東京オリンピック開催を控えて、新型コロナウイルスへの日本政府の対応は鈍かった。安倍晋三総理は、春節の中国人観光客を歓迎するビデオメッセージを発表するなど、依然として海外旅行客を歓迎する姿勢を変えていなかった。

日本政府の姿勢が徐々に変化したのは、横浜港に入港した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗船客に感染者が相次ぎ、入院措置や外国人乗客の帰国手配に迫られたのをはじめ、感染が拡大していた北海道の鈴木直道知事が独自に緊急事態を宣言し、外出自粛を求めたころからである。安倍総理は2月27日に小中高校の一斉休校を要請したのを手始めに、中国国家主席来日の延期(3月5日)、東京オリンピック開催延期(3月24日)と相次いで発表し、新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえた方針へ転換した。そして、4月7日には7都府県を対象として緊急事態を宣言し、同月16日に適用範囲を全国に拡大、新型コロナウイルスの感染拡大阻止に向けた対策を打ち出した。

この間、WHOの勤務経験を持つ尾身茂・自治医科大学名誉教授(感染症)、WHOでSARSへの対応に当たった押谷仁・東北大学教授(微生物学)ら日本を代表する研究者を集めて「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」を組織し、防疫対策を策定する方法をとった。尾身、押谷両教授ら専門家による検討の結果、国民に対し、密閉、密集、密接のいわゆる「3密」を回避し、集団感染(クラスター)の発生を阻止するよう訴えるリスク・コミュニケーションが専門家から取られた。これは緊急事態宣言による感染拡大抑止策もあり、一定奏功したとみられる。なかでも、押谷教授が公表した資料「COVID-19への対策の概念」[19]は分かりやすく書かれ、新型コロナウイルスの正確な理解に心を砕いていたことが伺われる。

他方、政府レベルでは、安倍総理は小中高の休校を発表した直後の2月29日の初めての記者会見を皮切りに、緊急事態宣言が解除された5月25日までに計8回の記者会見を開き、政府の政策を説明した[20]。その最初の会見では、安倍総理による20分余りの冒頭説明の後、質疑に移り、記者から「まだ聞きたいことがあります」と声が上がっているにもかかわらず、開始から1時間程度で司会の内閣広報官が会見を打ち切り、その姿がテレビの画面を通じて国民に流された[21]。未曽有のコロナ禍により困窮する国民に寄り添い、政府の対応に理解を求めるという観点からは、疑問の残る対応だった。その後の記者会見もほぼ同様の流れとなっていた。事実、内閣支持率はその後、徐々に低下していくことになる[22]。

「ダイヤモンド・プリンセス」に乗り込み、感染者への対応を視察した経験を持つ感染症専門医の岩田健太郎・神戸大学教授は自著で、リスク・コミュニケーションについて「相手あってのコミュニケーション」であり、「一方的な情報伝達ではなく、双方向の『対話』という形」をとると指摘する[23]。相手の言い分を無視して、一方的に情報を流しても、「仕事をしたフリ」にはなっても、「説得」や「合意」といった目的を達することはできないと指摘する[24]。また、リスク・コミュニケーションが専門のコンサルタント、西澤真理子氏もリスク・コミュニケーションの目的を「安全性情報の伝達」「意見交換」「相互理解」「責務の共有」「信頼の構築」と位置付ける[25]。岩田教授や西澤氏の知見に照らし合わせれば、安倍総理の会見の在り様は「説得」というよりは政府の決定事項の「伝達」に重きが置かれており、国民との間における「説得」や「合意」「信頼の構築」において課題を残した可能性がある。

日本政府によるこのような対応を内外の専門家はどうみたのか。海外の専門家からの評価もあまり芳しいとは言えない。パブリック・ディプロマシー研究で国際的に知られるナンシー・スノー教授(Nancy Snow, 米カリフォルニア州立大学フラトン校名誉教授)は「日本政府は新型コロナウイルスのコミュニケーション試験には不合格だった」と題した論説で、「ダイヤモンド・プリンセスの多数の乗船客に感染の懸念があっても、安倍総理をはじめ日本政府からは、配慮ある励ましのメッセージは発せられることはなく、沈黙とよそよそしさが印象付けられた。東日本大震災と福島第一原子力発電所事故当時に、正確な情報がほとんど発表されなかった、あの頃を思い出させる」と手厳しい[26]。同様に、緊急事態宣言を発表後、安倍総理がミュージシャンの星野源さんの動画に自宅でくつろぐ様子の動画を重ねてツイッター上で公開し、厳しい批判が上がったことについても、「安倍総理の動画は、(緊急事態宣言下で困難に直面する)市民との間にある溝を象徴的に映し出してしまった」と指摘する。[27]

同様に、危機管理に関わるノンフィクション作家として高い評価を受ける柳田邦男は、リスク・コミュニケーションの重要性と配慮について、2013年の新型インフルエンザ特別措置法「行動計画」[28]で強調されていたにもかかわらず、政府内で混乱が目立つとみる。その例として、安倍総理がPCR検査を「1日2万件に倍増する」と国会で公言したにもかかわらず、実際には1万件にすら届かず、実現の裏付けとなる具体策がないままの発言であったと指摘し、政権内に危機管理のプロが不在だったため「行動計画」策定から現在に至るまでが「7年間の空白」になってしまったと分析する。それらを踏まえ、「危機的事態に巻き込まれてから、泥縄式に対策に取り組む政治風土と政治家の精神構造を転換する世論を形成する」よう訴えるのである。

岩田教授はまた、リスク・コミュニケーションを効果的に行うためには「コミュニケーションを行う者の専門的な知識や能力が十分にあり、信頼されていることが大事」と説く[29]。そして、信用を失うことがないよう、妥当性が高くプロフェッショナルなリスク・コミュニケーションを行う必要があると強調する[30]。その意味では、安倍総理によるPCR検査の実施件数に代表される数々の発言は、国民との信頼や信用の点で課題を残したと言えそうである。

小括

緊急事態宣言が解除された5月25日以降、各種の自粛要請が徐々に解除され、経済が再開されたが、本稿執筆時点で感染者数は再び急増に転じた状況である。新型コロナウイルス危機が短期的に収束する可能性は高くなく、数年規模で考える必要があることを印象づける。

日本を含む主要8カ国を対象とする世論調査によれば、新型コロナウイルス危機への対応に関して、その政治指導者への評価を尋ねたところ、総じて支持の拡大が見られる中で、安倍総理は支持を低下させた二人のうちの一人であった[31]。ドイツや欧州諸国、米国などに比べ、感染者数や死者数も決して多くはないにも関わらず、政府や政治指導者への評価としては高いとは言えない。これまでに見てきたリスク・コミュニケーション上の課題がその一因を担っているといえるだろう。国際的に高く評価されているのは、ドイツのほかに、米学術誌「フォーリン・ポリシー」の「世界の頭脳百人」に選ばれ、マスクの在庫が一目でわかるアプリのプログラムを開発したことで知られるデジタル担当大臣の唐鳳(オードリー・タン)の活躍もあり、死者をわずか7名に抑え込んでいる台湾、SARSの経験を活かし、政府の「シンガポール・スマート・ネーション・イニシアチブ」によりデジタルツールを活用し、感染者情報の追跡を可能にして感染拡大を抑止したシンガポール、早くからドライブスルー形式のPCR検査を導入し、感染拡大を抑止したと評価される韓国などであろう[32]。

パンデミックのような世界的危機においては、それぞれの政治システムや国情に違いはあるにせよ、各国の政治指導者が危機に対してどのような政策対応をとったのかの国際比較が可能であるため、その指導者の資質と能力に関わる国際的評価が可能で、否応なく浮き彫りにされる厳しい側面がある。

改善のための具体策として、例えばメルケル首相がそうしたように、未曽有のコロナ禍にあって不安を抱える国民に対し、総理をはじめとする政府関係者が「覚悟」と「配慮ある励ましのメッセージ」をいっそう発信し、国民の疑問に答え、政府の対応に「納得」や「合意」を得ていくという姿勢を見せることが不可欠だろう。そうすることにより、政府の政策への協力を得るための政治的コストは低くなっていくはずである。

次に、リスク・コミュニケーションを効果的に行うための「信頼と信用」を獲得するために、政策実現のための具体策に裏打ちされた政策履行に努めることが不可欠である。その実績を積み重ねることにより、信頼を積み上げていくほかはない。若干の懸念は、現時点で国民との間に、信頼や信用を再構築する余地がはたしてどの程度残されているのか、ということである。

筆者紹介

中村 登志哉(なかむら としや)

・名古屋大学 大学院情報学研究科 グローバルメディア研究センター教授・社会情報学専攻兼任

・専門分野は国際関係論・政治学。なかでも、ドイツをはじめとする欧州や日本、アジアを中心に、政策過程における国内世論やメディア、規範、政治文化の役割に着目して研究しています。著書・論文執筆の研究活動のほか、国際情報誌「フォーサイト」(新潮社)や共同通信社の記事を寄稿いたしております。

Researchmap  https://researchmap.jp/read0153229

ホームページ https://toshiyanakamura.academia.edu/

執筆者紹介  https://www.fsight.jp/articles/-/46199#author1


[1] 新型コロナウイルス危機に対するドイツの初期対応については、次を参照されたい。中村登志哉「新型コロナウイルスをめぐる欧州各国の現実:その影響と対応(ドイツ)」(http://gfj.jp/j/pdf/200701nakamura.pdf) 、シンポジウム「第3回欧州政策パネル:新型コロナウイルスをめぐる欧州各国の現実―その影響と対応」(グローバル・フォーラム主催、http://gfj.jp/j/pdf/200701.pdf)、オンライン会議、2020年6月5日。

[2] ロベルト・コッホ研究所のロタール・ウィーラー所長( Lothar H. Wieler ) が2020年7月8日、日本記者クラブ主催の記者会見(オンライン)で行った発言。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200709/k10012505371000.html. (2020年7月20日閲覧)

[3] 例えば次を参照。Pew Research Center, “Americans Give Higher Ratings to South Korea and Germany Than U.S. for Dealing With Coronavirus”, https://www.pewresearch.org/global/2020/05/21/americans-give-higher-ratings-to-south-korea-and-germany-than-u-s-for-dealing-with-coronavirus/. (2020年6月1日閲覧)。

[4] ドイツ連邦共和国大使館「新型コロナウイルス感染症に伴う査証(ビザ)制限・出入国制限・渡航制限」、2020年7月9日、https://japan.diplo.de/ja-ja/service/-/2321032(2020年7月20日閲覧)

[5] EU首脳会議による「復興基金」(Recovery fund)の創設、2020年7月21日。https://www.consilium.europa.eu/en/meetings/european-council/2020/07/17-21/.  (2020年7月25日閲覧)。

[6] ドイツと欧州の関係については、次を参照。ハンス・クンドナニ著、中村登志哉訳『ドイツ・パワーの逆説』、一藝社、2019年。

[7] Presse- und Informationsamt der Bundesregierung, Fernsehansprache von Bundeskanzlerin Angela Merkel, 18. März 2020, https://www.bundeskanzlerin.de/bkin-de/aktuelles/fernsehansprache-von-bundeskanzlerin-angela-merkel-1732134. (2020年6月1日閲覧)。

[8] Ibid.

[9] 神屋由紀子「シェアされる首相演説」、西日本新聞2020年3月28日付朝刊。https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595793/. (2020年6月1日閲覧)。

[10] ‘Merkel in Berliner Supermarkt – Die Kanzlerin zahlt mit Karte‘, Bild, 2020年3月22日付、https://www.bild.de/politik/inland/politik-inland/merkel-in-berliner-supermarkt-die-kanzlerin-zahlt-mit-karte-69537342.bild.html. (2020年7月26日閲覧)。メルケル首相は夫の量子化学者であるヨアヒム・ザウアー教授(フンボルト大学)と二人暮らしで、食品とワイン、トイレットペーパーなどを買い、市民とともにレジに並んでカードで支払う様子が撮影されている。

[11] Politbarometer, Bundeskanzlerin Merkel macht ihre Arbeit eher gut oder schlecht, ZDF, https://www.zdf.de/nachrichten/politik/politbarometer-coronavirus-grenzoeffnung-eu-100.html?slide=1589462240255. (2020年6月1日閲覧)。

[12] 例えば次を参照。 https://www.sueddeutsche.de/kolumne/boris-palmer-tabubruch-der-grundwerte-infrage-stellt-1.4898306. (2020年6月1日閲覧)。

[13] Bericht zur Risikoanalyse im Bevölkerungsschutz 2012, Deutscher Bundestag, Drucksache 17/12051, 3. Jan. 2013. https://www.bbk.bund.de/SharedDocs/Downloads/BBK/DE/Downloads/Krisenmanagement/BT-Bericht_Risikoanalyse_im_BevSch_2012.pdf;jsessionid=B6B71C1C09166E7FCD6550367DB2FABB.1_cid320?__blob=publicationFile. (2020年7月26日閲覧)。

[14] ドイツの非常事態における政策の詳細については、次を参照されたい。中村登志哉「ドイツの非常事態法制とその政策的含意―連邦軍の国内出動を中心に」、武田康裕編『論究 日本の危機管理体制―国民保護と防災をめぐる葛藤』、芙蓉書房出版、79-97頁、2020年。

[15] Ibid, pp.55-87.

[16] ドイツをはじめ欧州諸国において、同分析報告書のシナリオが現実になったとする見方で報道された。例えば、次を参照。 ’Germany’s 2012 Covid scenario became real in 2020’, Foreigner.fi, Finland, https://www.foreigner.fi/articulo/coronavirus/germany-s-2012-covid-scenario-became-real/20200325014404004958.html. (2020年7月26日閲覧)。日本においても、次の記事で紹介された。熊谷徹「新型コロナ最悪シナリオを8年前に想定したドイツの危機管理」、日経ビジネス、2020年4月21日。https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00023/042000163/. (2020年7月26日閲覧)。柳田邦男「この国の『危機管理』を問う」、月刊文藝春秋、2020年7月号、176-188頁。

[17] Ibid., pp.64-65.

[18] Ibid., pp.64-65.

[19] 押谷仁「COVID-19への対策の概念」、2020年3月29日, https://www.jsph.jp/covid/files/gainen.pdf. (2020年7月26日閲覧)。

[20] 総理官邸のホームページによる。https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/index.html. (2020年7月26日閲覧)。

[21] 2020年2月29日、首相官邸で開催された新型コロナウイルスに関する安倍総理による第1回の会見。安倍総理による20分程度の冒頭説明後、質疑応答に移った。開始から1時間程度で司会の内閣広報官が次の日程を理由に打ち切ろうとしたため、フリーランスの江川紹子記者が「まだ聞きたいことがあります」と声を上げたが、打ち切られた。記者会見の記録は次を参照。https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0229kaiken.html. 江川紹子記者の記者会見当日のツイッターは次を参照。 https://twitter.com/amneris84/status/1233693261484572672.  (2020年7月26日閲覧)。

[22] 新聞やテレビなどの報道機関の世論調査結果によれば、この時期の内閣支持率は低下する一方、不支持が拡大する傾向を示している。例えば、NHKやテレビ朝日のデータを参照。NHK調査では、内閣支持率は45%(2020年2月)から36%(同年7月)へ低下し、不支持率は37%(2月)から45%へ上昇した。テレビ朝日の調査でも同様の傾向(支持39.8%→34.4%、不支持38.6%→48.3%)を示した。http://www.nhk.or.jp/senkyo/shijiritsu/, https://www.tv-asahi.co.jp/hst/poll/graph_naikaku.html. (2020年7月26日閲覧)。

[23] 岩田健太郎「『感染症パニック』を防げ! リスク・コミュニケーション入門」、光文社新書、35頁、2014年。

[24] 岩田健太郎、前掲書、35頁。

[25] 西澤真理子「リスクコミュニケーション」、エネルギーフォーラム新書、100-102頁、2013年。

[26] Nancy Snow, ‘Japan’s government has failed coronavirus communications test’, Nikkei Asian Review, 21 February 2020, https://asia.nikkei.com/Opinion/Japan-s-government-has-failed-coronavirus-communications-test. (2020年7月26日閲覧)。

[27] Nancy Snow, ‘Abe’s cheesy video highlights Japan’s coronavirus PR failure’, Nikkei Asian Review, 25 April 2020, https://asia.nikkei.com/Opinion/Abe-s-cheesy-video-highlights-Japan-s-coronavirus-PR-failure. (2020年7月26日閲覧)。

[28] 厚生労働省「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」、2013年6月7日、https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou01/dl/jichitai20131118-02u.pdf. (2020年7月26日閲覧)。

[29] 岩田健太郎、前掲書、60-61頁。

[30] 岩田健太郎、前掲書、61-62頁。

[31] Katharina Buchholz, ‘How the Coronavirus Changed Politicians’ Approval Ratings’, Statista, 25 May 2020, https://www.statista.com/chart/21812/world-leader-approval-ratings/. (2020年7月26日閲覧)。

[32] Ian Bremmer, The Best Global Responses to COVID-19 Pandemic, Time, 12 June 2020, https://time.com/5851633/best-global-responses-covid-19/.  (2020年7月26日閲覧)。

2020年7月29日社会情報学専攻, グローバルメディア研究センターコロナ特集, 国際関係論, リスクコミュニケーション, 社会情報学専攻, 人間・社会情報学科, 社会情報系

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