特集「新型コロナと情報」:理想的な教育環境を目指して
はじめに
今さら言うまでもなく2020年は激動の年となった。技術が発展したからではなく、疫病の蔓延という形で世界は変化を余儀なくされた。中国に端を発する新型コロナウイルス感染症は瞬く間に世界を席巻した。今やさまざまな社会的機能を変革しなければならない。医療はもちろんだが教育もその一つである。
今の教育をより安全で効果的なものに変える手段はないだろうか。私の考えるそれはVR(仮想現実)技術である。近年、VRはエンターテインメントに限定されない様々な分野で活用が進められている。特に、仮想空間でリアルタイムかつ多人数で体験できる、共有された空間に価値が見い出されている。その例として挙げられるのは、仮想空間を利用したミーティングやコンサート等のイベントである。
教育とVR
当然ながらVRの教育への応用が考えられる。2009年に、King’s College Londonのe-learning managerであるSteven Warburtonは、セカンドライフと呼ばれる仮想世界における活動を詳細に分析して、多人数が参加する仮想空間において、没入型の空間を教育に使用する上での可能性とその問題点を探った(文献 Steven Warburton, “Second Life in higher education: Assessing the potential for and the barriers to deploying virtual worlds in learning and teaching,” British Journal of Educational Technology, Vol. 40, No. 3, pp. 414-426, 2009.)。
教育における仮想空間の優位性として、現実では実現不可能なコンテンツの可視化や文脈化(ストーリーを持たせること)や物理的な制約を克服したシミュレーションがある。また、アバターとして仮想空間で幅広いコミュニケーションを行うことで増強された臨場感が、体験の感情的・共感的・やる気に影響を与えることを確認した。問題点としては、技術や標準規格といった基本的な問題だけでなく、仮想空間における独自の規範やエチケットがあること、効果的な対話を可能にするためにチャットなどのコミュニケーションサービスが補助的に必要になることなどを挙げている。
このように、没入型の仮想空間つまりVRは、教育のために効果的な空間であることが実証されている。ただし、一般にVRを長時間使い続けるのは未だに困難である。Simulator sicknessいわゆる、VR酔いは、人間の脳に対する多大な負荷が要因の一つになっている。例えば、VRゲーム内を移動するときに、片手で持って操作するコントローラのボタンやジョイスティックを用いることが多いが、ジョイスティックの操作による移動と歩行による移動には視覚的にフィードバックされる情報に差があるため、歩行に慣れている脳には大きな負担がかかる。下手をすると、仮想空間をただ移動しているだけで気分が悪くなってしまう。
この問題への対応策の一つに、VRゲームの流通プラットフォームのSteamを運営するアメリカのValve Corporationの提案するルームスケールVRがある。これは、部屋の中に歩き回る空間を作ることで、VR内の移動と実際の歩行を連動させる仕組みである。これは脳に対する負担を軽減することができるが、歩き回ることで部屋の中のものにぶつかってしまう危険性が発生する。この問題を解決するとともに、歩き回れる空間を建物のフロア全体まで拡張したものに、我々の研究しているビルディングスケールVR(図1)がある。これによって、VRの応用範囲が格段に広がり、VRを使った教育も、従来よりずっと行いやすくなる。
サイバー・フィジカル・エデュケーション
私は,このような背景で生まれた新しい教育システムについて研究している。これをサイバー・フィジカル・エデュケーション(Cyber-Physical Education)(図2)と呼ぶ。サイバー・フィジカルという言葉は、あまり聞きなれないかも知れないが、サイバースペースと呼ばれる情報世界とフィジカルスペースと呼ばれる実世界を統合するという意味である。その統合された環境をベースにして新しい教育システムを設計する。
それは現実空間をベースにして仮想空間を作り、仮想空間での活動を現実にフィードバックするというものである。これによって、VRを使って行われる活動が、現実においても同等以上の価値を持つことができる。つまり、仮想空間で学んだことが現実でも十分に役に立つということである。ならば、仮想空間の方がうまくいく教育方法があれば、仮想空間でやった方がよいということになる。そのような方針で教育システムを設計してみるのがよいと思う。
これからは、学ぶことがこれまでよりずっと手軽に、面白くなることは間違いないだろう。これを読んでいるみなさんは、新しい技術によって教育が大きく変わろうとしているのを感じることができると思う。
理想的な教育環境
最後に、理想的な教育環境についての私見を述べたいと思う。
私は、理想的なオンライン講義はオンデマンド型(非同期型)であると思っている。それは、教育資源の蓄積に直結するからである。通常の同期型講義を記録してコンテンツとするやり方もあるが、それはそのときの受講者にばかり注意がいってしまい、将来そのコンテンツを視聴するであろう、潜在的な受講者に対する注意があまり働かなくなってしまうのが問題である(受講者のことをまったく気にしない教員はもっと問題であるが)。もちろん、オンデマンド型であるために失われるものもある。例えば、教員と学生の講義中のインタラクションである。私は、それをAI(エージェント)技術で解決したいと思っている。そもそも教員が常にすべての受講者に注意を向けるのは不可能なので、学生が困っていたり、質問したがっていることに気づくのは容易ではない。それをAIシステムで認識し、質問をうながすことができるだろう。
さらに、オンデマンド型コンテンツの場合、対話システムで質問に回答することもできるようになるだろう(もちろん、回答が困難な質問の場合は、教員に伝達して後で回答してもらうこともできる)。
この技術は、VR技術と組み合わせることで、最も効果を発揮することができる。
教員がVR環境で講義を行うことによって、多くの教育資源が蓄積される。学生は非同期にVR環境に没入して講義を受け、実空間と同様に挙手をして質問をすることもできる。受講履歴は自動的に分析されて、学習状況が可視化されてフィードバックされるだろう。複数の受講生が参加している講義(ただし、自分以外の受講者は過去の記録から再現されている)にも関わらず、教員が自分のことをよく気にかけてくれる(質問をうながしてくれたり、眠ってしまっても優しく起こしてくれる)、というのはパーソナライズド講義(個別最適化された講義)の典型例ということができる。
VR環境を使って構築・蓄積した教育コンテンツは、再利用によってその価値が増大する。過去の講義に出席して、すでに退職されている先生の話を目の前で聞く、というのもその一つであるが、機械学習に利用して、複数の分野を横断的に解説できるAI教師を作り出すことも可能になるだろう。
学生から教員へのフィードバックとしては、質問やアンケートだけでなく、講義に対する関心度がよいだろう。それは、受講時の学生の表情などから自動的に推定される。主要なVRデバイスであるヘッドセット(HMDとも呼ばれる)にはディスプレイとマイク以外に、視線追跡装置や表情認識装置を搭載することができる。これらの技術を使って、VRユーザーの表情をそのアバターに反映させる技術を研究している。
講義に対する関心度がわかれば、これを向上させるために、教員は講義内容を工夫すべきだろう。内容のレベルが高く、シラバスがしっかり書かれているとしても、ほとんどの学生が関心を持たないような講義ではあまり意味がない。わかりやすさは受講者の知識レベルなどにも依存するから、簡単には定義できないと思うが、(平均)関心度は機械的に計算できるので、それを評価基準の一つにすることができる。
ただし、オンデマンド型の講義では、学生がさぼってしまう問題が発生する。それは基本的には学生の自己責任なのであるが、さぼりを促進させるような仕組みを提供するわけにはいかない。
学生がみな真面目に授業を受けてくれることを期待するのは教員の勝手であるが、実際はそうではない。対面で講義をするときでさえ、遅刻してくる学生はいるし、講義中にやる気のない虚ろな目をしている学生もいるし、ずっと寝ている学生もいる。私は20年近く講義をしているが、未だに、やる気の感じられない学生の目や態度に心が折られそうになる。
さて、時間的制約が緩くなれば、怠けたくなるのが人間の本能だと思うのだが、それを抑制する仕組みを考えてみる。
一つは就職活動とのリンクである。大学での活動や態度が、就職活動に影響を与えることが事前にわかっていれば、学生のモチベーションは向上すると思われる。企業の採用担当者に大学の内部情報を一部開示することになるが、それは本人の同意の上で行う。
もう一つは、学問そのものの魅力をアピールすることである。学問への情熱というものは、時間が経つにつれて薄れていくものだから、毎年、その魅力をアピールし続けるのはむずかしいかも知れないが、それは教員の果たすべき義務であろう。
私は、その学問を習得することで社会に貢献できるようになる具体的な事例を、できるだけ多く見せようとして、講義にその内容を盛り込んでいる。これは、工学ならば当然のことかも知れないが、ワクワクする未来を学生に見せてあげるのはとても重要なことである。学問の魅力をアピールするやり方は多種多様であり、最適なガイドラインがあるわけではないが、そのやり方を考え続けるのは、教員の楽しみの一つでもあるだろう。
我々の目指すVR講義が、学問を魅力的に見せることに役立つように、これからも新しい仕組みを研究し続けていきたいと思っている。
参考 長尾研究室のVRプロジェクトの紹介ページはこちら。
長尾 確(ながお かたし)
名古屋大学 大学院情報学研究科 知能システム学専攻教授
専門は人工知能、仮想現実、知的移動体など。
著書に『Artificial Intelligence Accelerates Human Learning』(Springer, 2019),『ディスカッションを科学する』(慶應義塾大学出版会,2018),『エージェントテクノロジー最前線』(共立出版,2000)などがある。