吉信 康夫先生 インタビュー きれいにまとまり過ぎているのはギリギリを攻めていない
聞き手:関 浩之
Q まず、先生のご専門である公理的集合論とはどのようなものか、簡単にご説明いただけますか。
A 公理的集合論とはひとことで言えば「無限の大きさ」についての研究です。ひとことで無限といっても、例えば1, 2, 3, …のような自然数全体がなす無限と、ひとつの直線の上にある点全部がなす無限とでは、ある基準でみたとき「大きさ」が違う(後者の方が大きい)など、いろいろな大きさの無限があることがわかってきました。無限の大きさにはどのくらいの種類があるのか、それらはどのように関係しどんな性質をもっているのか、を調べるのが公理的集合論の主な目標です。
Q 数学を研究していてよかったと思うのはどういうときでしょうか。
A 自分の研究、ということでいえば、誰かの要求や興味に応えるのでなく、あくまでも自分が興味をもったテーマを突き詰めて考えることができている、というのはありがたいし幸せなことだと思います。
研究の面白さ:ギリギリを攻める
Q 研究がうまく進まないことはありますか。あるとすればそのようなとき、どうされますか。
A 研究が進まないことはあります。というより、何も進まないフェイズの方が時間としては圧倒的に長いと思います。あまりにも動かないときは、別の問題に取り組んだり、勉強したいと思っていた他の人の論文(いくらでもある)を読んでみたりして、少し気分を変えるなどしていることが多いと思います。
Q よい結果が得られたとき、その結果は私には美しいものに感じられます。私と比較したら失礼ですが、先生のご研究においても、そのような感覚はあるでしょうか。
A はい、結果が美しいと思えるときはあります。それは問題の切り出し方がよかったとか、導入した概念がある程度本質を突いていた、ということだろうと思います。一方、我々の研究分野では、本当に難しい問題を突き詰めていった時には必ずしもきれいな結果にならないこともあります。きれいにまとまり過ぎている結果、というのは、ギリギリを攻められていない、という場合もあるかもしれません。難しいですね。
「役に立つ」研究とは?
Q 役立つものばかり求められる傾向が増していくことを私は少々心配しています。先生はどうお考えですか?
A もちろん役に立つに越したことはないのですが、何が役に立つかはあとになってみなければわからないところもあるので、大学のようなところは幅広い知の蓄積をめざす方が相応しいと思います。
Q なるほど。私の指導教員も工学系の中では「紙と鉛筆」の理論派だったですが、なぜか若い者に対しては「役に立つ研究をせよ」と言いました。今のお話を伺って、恩師も「深い構造をもっていて、将来新しい分野や問題が出てきたときそこに応用できる本質的なことに向き合え」と言いたかったのかと思いました。
Q さて、情報過多の時代において、限られた注意力を取り合う競争が激しくなり(注意経済)、その結果、人々は注意や思考を次々と切替えるような傾向が強まってきたとも言われます。一方、数学はその正反対の態度や思考が要求されると思います。この意味から数学の意義が増していると考えられますか?
A 数学であれ他の分野であれ、体系的な知を築くには、対象とじっくり付き合うことが必須なのはいつの時代も同じことだろうと思います。
高校生・受験生への本音のメッセージ
Q 高校生・受験生に、大学入学までに学んでほしいことがあれば教えてください。
A 特にこれを、というのはないですが、小さなことでもいいので、「やれと言われたことを、教えられた方法で片付ける」を超えて、「自分が興味を持ったことを、とことん調べ、考える」という経験をしてほしいと思います。「わかる」の意味が変わってくると思います。
Q 数学との向き合い方についてヒントを頂けますか。
A 分かりにくい定義や主張に出会ったら、やはりいろいろな例で手を動かして様子を観察することが有効だと思います。ただ闇雲に数を多くこなすより、起こりうるいろんな状況をなるべく網羅できるように効率よく例を考えてみると良いと思います。まあそれがなかなか難しいのですが。
Q ご自分の大学生活で何か後悔していることはありますか?
A 言い出せばキリがないですが、もっと勉強しておけばよかったと思います。他の仕事がなくて勉強(研究)だけに専念できる、というのは学生の特権ですよね。
Q「もっと勉強しておけばよかった」と聞いて、先生でもそう思われることがあるのかと、ちょっとほっとしました(笑)。今日はいろいろなお話をありがとうございました。