中澤 巧爾先生 インタビュー 論理学やコンピュータ科学のもっとも「オモロい」ところ
聞き手:関 浩之
Q ウオームアップの質問をさせてください.コンピュータ科学に限ったことではないですが,科学者には芸術をよくする人は多いです.先生は器楽演奏を続けておられますが,ご研究と音楽との間に何かつながりを感じておられますか.
A このように訊いていただいて,まず何よりも先に断わっておきたいと思ったのは,胸を張って「器楽演奏をやっています」と言えるほどちゃんとはできていない,ということです(笑).やりたいのですが,時間も技術もなかなか追いつきません…という程度のレベルですので,その点は予めご了承ください.
自分としては,ヘタクソなりに演奏をしたり,他の人達の音楽を聴く事をとても楽しんでいるのですが,研究や仕事との直接的な関連をあまり考えたことはありませんでした. 改めて考えてみると,昔から,理詰めでコツコツ積み上げていくことが好きな一方で,論理や理屈では説明できない物事に触れることが好きだったのかもしれません.中高生の頃は,吹奏楽部で音楽に触れていただけでなく,筒井康隆のドタバタな小説とか,ダウンタウンのコントとかにどっぷり嵌まっていました.芸術やお笑いのような,単純に自分の感性だけに従って楽しめるような「ようわからんけど,なんかオモロい」事が大好きだったんですね.
「オモロい」証明
Q その「なんかオモロい」と先生のご研究に関連はありますか?
A 数学や論理というと,そういった感性や情緒とは無関係のように思われがちですし,実際に何か定理を証明する時には感性や情緒をいったん忘れて論理で推論を積み上げていくしかないわけですが,実は一番大事なのはその定理を「オモロい」と感じる感性です.その基準となるのは,何かに応用できて役に立つとか,そういった方向だけではなくて,もっと主観的な「オモロさ」の方が重要視されているように思うんですね.数学者の岡潔は小林秀雄との対談「人間の建設」で,「数学がいままで成り立ってきたのは,体系のなかに矛盾がないということが証明されているためだけではなくて,その体系を各々の数学者の感情が満足していたということがもっと深くにあったのです」という風に,「満足」という言葉を使って説明しています.語弊を恐れず言ってしまえば,数学は,無味乾燥な論理を使っていかに「オモロい」ものを作り上げるか,を目指しているのだと思います.
Q 体系を作った学者自身が満足しているからこそ,他者の心を共鳴させる普遍性がある.
A そうですね.必ずしも万人が共通して満足するものが望めなくても,少なくとも個人の中に「満足するか否か」という感性が必要ということだと理解しています.
また別の要素として,数学が好きな人達は,証明そのものを楽しんでいるように思います.数学の難しい定理の証明の多くには思いもよらないアイディアが含まれていて,他人が思いついたワケの分からん概念を眺めて楽しんだり,自分で思いついて興奮したりする.数学の魅力にはそういった感情的な部分が沢山あります.「数学セミナー」という数学オタクのための雑誌があって,その中に「エレガントな解答を求む」というコーナーがありました(今でも続いている?).毎月,数学の問題が数問出題されて,読者がこぞって解答を投稿し,出題者がその中から「エレガントな」解答を選んで紹介するのです.「単純な」でも「簡単な」でも「分かりやすい」でもなくて,「エレガントな」というところが重要です.他にも,「天書の証明」という本があって,これは,それこそ神が与えたと思えるようなエレガントな証明を沢山集めた楽しい本です.この冒頭ではいきなり「素数は無限に存在する」という一つの定理に対する六つの異なる証明が紹介されています.有名なユークリッドによるとされる証明もかなりエレガントだと思うのですが,それ以外に全くアイディアの違う証明が五つもあるわけで,しかもどれも面白いんです.学問としては正しい証明が一つあれば十分だと思われるかもしれませんが,もっと「オモロい」証明を探して楽しむのも数学なのです.
Q 研究と受験勉強とを直接比較はできませんが,確かに高校数学の証明問題をすっきり解けたときの爽快感は他の科目では味わえないですね.ここまでの話を踏まえて最初の質問に戻りますが,そのような数学の楽しみ方と,趣味としてやられている音楽の楽しみ方の間に何か通ずるものはあるのでしょうか?
A 数学の定理や証明に感じる「オモロさ」と,音楽に感じる「オモロさ」との間に関係を見つけたり,それらを比較したりするのはなかなか難しいですが,実はそこに向かう動機は同じ,「なんかオモロいことを味わいたい」という感情や「オモロいことができた」という達成感への期待なんじゃないかと思います.
例えばジャズのアドリブには,コード進行やスケール(音階)など,過去から積み上げられた沢山の理論が存在しています.心地良く格好良い音楽を作るための理論ではあるのですが,理論の枠に嵌めるだけでは退屈な音楽になってしまいます.基本的にはその理論に従いつつ,思いもよらない「オモロい」演奏に触れるのはとても面白く,これは,エレガントな証明に触れる楽しさに似ているように思います.自分で理解して実践するにはまだまだ程遠いですが….
「パラドックス」に魅せられて
Q 先生が論理に興味をもたれたきっかけは?そしてそれを研究することの面白さとは?
A これについてもあまり明確に意識したことはないのですが,今考えると,いくつかのパラドックスから受けた衝撃が,論理や数学に対して興味を持つ土台になったように思います.とくに,高校生の頃だったと思いますが,「バナッハ=タルスキのパラドックス(定理)」に衝撃を受けたことを覚えています.当時は選択公理もよく理解していませんでしたが,直観的に「間違いなく正しいだろう」と感じる仮定から,「間違いなく正しいだろう」と思われる推論を重ねた結果,「一つの球を有限個に分割して組み立てて同じ大きさの二つの球が作れる」が結論できるなんてめちゃくちゃ「オモロい」じゃないですか.論理の面白さは,まさにこの「簡単な仮定」から「様々な結論」を導けるところにあると思います.
数学に限らずあらゆる科学で,ある時点で信じられているパラダイムを崩して科学が発展する契機を作るのは,直観(や,実験)と,論理的な結論の間に現れる矛盾です.そこでは人間の直観的な感性と厳密な論理が両輪として機能するわけで,どちらも同じくらい大切なのですが,その中で論理の果たす役割は,少しの「仮定」から必然的に成り立たざるを得ない「結論」を導くという部分です.このプロセスは人間の直観や感情とは独立して,しかも万人が納得する方法でやらなければいけないので,かなり当り前のことしかできないはずなのに,こんなにおかしな結論を導いて,実は仮定が間違っていた,なんてことを暴いたりできるのが論理の力です.ちょっと古くて高校生のみなさんは知らないかもしれませんが,シャーロック・ホームズや古畑任三郎や犀川助教授に感じる格好良さこそ,論理の魅力です.
Q なるほど.では論理とコンピュータとの関係は?
A コンピュータがやっていることは,まさにこの「少しの仮定から,ややこしい結論を導く」ことに通じます.コンピュータのハードウェアというのは,ごくごく単純なことをする部品をたくさん組み合わせることによって,全体として極めて複雑な計算を行なうことができるようになっています.この部品のことを「論理素子」,組合せてできた全体のことを「論理回路」などと呼ぶことからも分かるとおり,これはまさに論理の仕組みを利用しています.ソフトウェアのレベルでも,例えばプログラムというのは,ある数値に1を足す,とか,ある数値が0かどうかで場合分けする,といった単純な命令を組み合わせることによって,全体としてロケットを軌道に沿って飛ばしたり,大量にある銀行の口座を管理したり,マリオを走らせたり跳ばせたりしているわけです.ここにも「簡単なことを組み合わせて,複雑な結果を得る」という論理の仕組みが働いています.
このようにコンピュータは論理的な構造をもっているので,コンピュータのことを調べるために論理を利用することができます.例えば,プログラムが正しく動作することを厳密に保証するために論理を利用する枠組みが研究されています.これは,プログラムの形式的検証と呼ばれるコンピュータ科学の一つの研究分野です.
世間で動いているプログラムが「必ず正しく動く」ことを保証するためにはどうすればよいでしょうか?実際に,簡単なプログラムのミスによって,ロケットが爆発したり,銀行のオンラインシステムが止まったり,マリオが壁をすり抜けたりしてしまうわけですが,これを防ぐにはどうすればよいでしょうか? とくに,ロケットや銀行の例のように,実際にプログラムを動かしてみて失敗したからやり直し,では許されないことがあります(マリオならこれでも許されるかもしれませんが).実際に動かす前に,プログラムを動かさずに,眺めるだけでミスを発見するため にはどうすればよいのでしょうか?
Q 分かりません.確かにコンピュータ(プログラム)の基本原理は,機械製品やビルディングと違って,運動方程式や熱力学の法則ではないですし,限られたデータで動作テストを行ったり,安全係数を掛けてマージンを取ったりするだけでは,プログラムの正しさは保証できないと思います.
A 実は,ここに論理の力を使うことができます.プログラムは先ほど言ったように,簡単な部品の組合せでできていますが,簡単な部品が正しく動くことを確認するのは簡単です.あとは,部品の正しさから,それを組み合わせたプログラムの正しさを導けばよいわけですが,これはまさに論理が得意とすることなのです.
数学でも論理学でもコンピュータ科学でも,この「簡単な部品を組み合わせて,複雑な結果を得る」ことができるところ,さらに「より簡単な部品から,いかに豊かな世界を構築できるか」を探究するのが,最も「オモロい」部分だと思っています.
授業の極意:「分かった気にさせる」?
Q 先生の授業は分かり易いと学生から定評があり,卒業研究でも先生は(隠れた)人気があります.授業において大切にされていること,こだわっておられることはありますか?
A そんな話は初めて聞きました.隠さずにもっと直接褒めてくれればいいのに(笑).
上で触れた,趣味で音楽をやっていることと研究との関係について,大学での仕事に良い影響を与えていると感じていることの一つが,仕事とは関係ない様々な人と話す機会が多いという点です.
プロの音楽家と交流して話を聞くことも刺激になりますし,趣味を同じにする人達との雑談も大事です.仕事でも雑談でも,色んなレベルで「知らない」人に自分の研究を紹介する機会があります.背景知識は共有しているけど自分の最新の研究は知らない程度の人もいれば,プログラムって美味しいんですか? みたいな人に自分の計算機科学の研究を説明しなければいけないこともあります.あらゆる人に自分がやっていることを「分からせる」ことは不可能ですが,「分かった気にさせる」ことは(難しいですが)可能だと思っています.
Q 高校と大学の授業の違いはどんなところにあるでしょうか?
A 高校までの授業に比べて,大学の講義で学ぶことは内容の量も質も桁違いです.さらに,数学に限らず色んな所で目に見えない抽象的な概念が登場します.なので,講義時間の中で全てを理解することは難しい. そこで,大学の講義ですべきことは,自分の感性で自分なりにイメージを作ることだと思っています.
講義をする側が講義時間中にできるのは,そのイメージを作る手伝いをして「分かった気にさせる」ことくらいではないかと思うんです.そのためには,抽象的な概念の定義だけではなく,それをもっとイメージしやすい言葉で説明しなければいけません.先にあげた「人間の建設」で岡潔がポアンカレの言葉を引いて(ポアンカレの先生である)「エルミートの語るや、いかに抽象的な概念と雖も,なお生けるがごとくであった」と言っています.ややこしい概念や定理を「生けるがごとく」説明できる境地に達するのは叶いそうにありませんが,できるだけイメージが作りやすいように説明することは心がけているつもりです.
余談ですが,大学生の頃,知り合いの陶芸家に酒の席で「数学をやっている人は,幾何学とかで出てくるモノが見えているのか?それには色がついているのか?」と訊かれたことがあります.あくまで自分なりにではあっても「見えて」いない事はなかなか理解できない,といったようなことを答えたことと,「色がついているのか?」という部分に芸術家の感性が溢れていて,オモロいなあ,と思ったことを覚えています.とにかく,抽象的な概念を理解するためには,まず自分の中で自分なりに「生けるがごとき」イメージを持つことが大切です.
高校までの授業において先生は「全て分からせる」ことを目指していますが,大学の講義において先生は「分かった気にさせる」ことを目指すものだ,と考えています.本当に分かるためには講義で作った自分なりのイメージをもとにして自力で(もちろん,質問などを通して先生や大学を最大限利用しながら)理解するしかありません.それが大学で勉強することの大変さであり,同時に楽しさでもあります.
将来大学で講義を受けることになる高校生のみなさんへのアドバイスとしては,是非,自分の中で直観的なイメージを作る訓練をすることをおすすめします.これは自分の経験則でしかなくて,心理学などの裏付けがある話ではないのですが,こういう直観的イメージを作る訓練としては,自分の感性や情緒を鍛えておく(というのが言い過ぎだとすれば,自分の感性や情緒を確認しておく)ことが効果的だと思っています.是非,受験勉強以外で,スポーツや芸術,小説やゲームやアニメでもいいと思うのですが,自分が「オモロい」と感じるものに沢山触れてください.
Q この「イメージを作る」ということは数学に限らず科学全般で大切であり,また,(今のところ)人間だけにできることですね.今日はお話をありがとうございました.先生のメッセージは,高校生・受験生の皆さんの心にも届いたことと思います.