今,アートの意味を考える
この記事は、情報玉手箱の特集「高校生,あるいは高校生の心をもった人へのメッセージ」を準備するために行ったインタビューが発展して生まれたものです。もとになったメッセージはこちらにありますので、ご覧ください。
現在のアートをめぐる状況について
ART:わたしの個人的な見方では、あるいは指摘されていることでもあると思いますが,現在の芸術、アートは、かなり苦しい状況にあるのではないか、またその原因として三点ほどあるのではないでしょうか。ひとつはやはり、市場価値。売れなければ回らないというか、誰も反応しない、そういうことに追いつめられている。第二に、いろいろな権威的なもの、アカデミックな権威もあれば、美術館という権威もあり、いろいろな権威があって自由にできないということ。第三に、新しさに対する強迫が強過ぎて、どうしても今までにない新しいものを、という強迫観念に苛まれている。
「ヘルシンキ・バスターミナル理論」[注1]というものがあります。その教訓は「とにかくすぐにバスは降りるなバカ!」というものですが(他人と似ていることを恐れてすぐにバスを降りてしまうのではなく持続することの方が重要である、むやみに新しさを追求するものではない)、こうした理論が出てくる理由として、アートの分野によっては収束していたり、場合によっては探索しつくされていて新しさというものがほんとうに存在しないという可能性も、なくはないと思います。
この三つの観点について、何かコメントがあるでしょうか。
AKB:二番目の「権威」ということで言いますと、誰かに選んでもらわなければ世に出られないという状況は確かに今でもあります。いくらSNSが発達して自分でYouTubeを使って宣伝したりNFT使って売買できたりすると言いましても、結局は誰かに選んでもらわないといけない。で、そのときに選ぶ側がほとんど同じメンバーになっている。同じようなメンバーが同じような人たち、同じような作家さんを選んでいるという状況がいちばん問題かな、と思います。
ART:SNSなどで開けつつあるんではないのですか?
AKB:いえ…なかなかそうはなっていないと思います。声の大きい人というのはSNSのなかにもいて、その人の言うことが通ってしまうというのは、変わらないのでは、と。また、セクトみたいなものがいくつかあって、閉塞した状況に陥っているのだと思います。
また、新しいものが出てこないということについては、アーティストが「善い人」でなければならないことになってしまったので [注2]、ほんとうは新しい、未開の領域と言いますか、手のついていない領域はあると思うのですが、それをやったときに非難されてしまうとか…。
ART:領域を出ると、必ず一部で害を受ける人が出てしまう…。
AKB:はい。
ART:何かこう、拡張したり、飛び越えようとしたりすると…。
AKB:はい。あらゆる人に批判されない、炎上しないようにしようと思うと何もできなくなるというのは、あるのでないか、と思います。(補足:いま美学研究者のなかで最もみなさんに親しまれているひとりである、東京工業大学の伊藤亜紗先生は、目の見えない人と見える人が一緒に何かをすることで、それまでになかった活動(ゲームやダンスなど)をつくる試みを続けておられます。そこから確かにこれまでとは違い、新しい何かが生まれているわけですが、非難されたこともありました [注3]。)
ART:アートにはどうしても暴力的なところがありますよね。人の心を動かそうと思うのだから、なにか一撃がないと…。
AKB:はい。そのやり方が難しくなっているというか。評価の高いChim↑Pomという作家集団がいますが、彼らにしても、ものすごく叩かれたわけです。授業で特定のタイプの作品(裸体画や1990年頃のデミアン・ハースト作品など)を見せるときにも、あらかじめ断ってからでないと見せられなくなっています。
ART:人々はそういうメンタリティですよね。わたしも担当しているボードゲームの授業[注4]でそういうことがありました。プレイを始めるときに「親」、つまり開始プレイヤーを決める必要があるんですけれども、ドイツのゲームにはふざけたようなところがあるので、「いちばん派手な服をきている人から始める」とか、「いちばん最近風邪をひいた人から」とか、おふざけ、アイスブレイキングであるわけですが、そういうのでやろうとすると、「これちょっとPC(ポリティカル・コレクトネス)的によくないので、じゃんけんにしましょう」とか、学生が言うんですね。なんでもないことなのに。「いちばん背が高い人から」というのもダメで。誰かの属性に関することを取りあげて、じゃあその人からね、というのはダメ、と。
AKB:そうなってしまうと思います。ことさらに反体制でなくても、ただ新しいことをやろうとするだけで、なんらかの軋轢は起こります。芸術とはそういうものだからです。わたしには、芸術とは「生命感」を与えるもの、という大前提がありますが [注5]、生命にはかなり暴力的なところがあると思うのです…。
ART:生態系は食ったり食われたりですからね。
AKB:はい。生きているとはどういうことか、そのなかでどうすればよいのかを考えるときに、生命性をある種の衝撃をもって与えるようなものでなければ、そこから何かを考えたりはしないですから、枠の中で閉じているようなものでは仕方ないわけです。ただそれができなくなっている。すべての人に配慮しましょう、というなかでやろうとすると…これまでの芸術全体が否定されてしまいかねない、です。
また、「アーティストは善い人でなければならない」ということになると、閉塞してきますね…。伊藤先生も、まずは自分の知らない世界を知りたい、誰もやっていないことをやってみたいということだったと思います。それが、SDGs的なものと結びついていった、という。
ART:芸術は、ひとりだけ自分が芸術だ、と言ってもダメで、ある程度、社会が認めないと芸術として成立しない面がある、しかしその社会もいろいろと変動するので、今いる社会の定義で「他はダメ」とか言ってしまったら、もう残らないというか、芸術の力を削ぎ落としてしまう。
AKB:何百年か経って歴史家が振り返ったときに、芸術不毛の時代、と言われてしまうかもしれません。
ART:いまはほんとうに、長い歴史のなかでも、視野が非常に狭くなっている時代だ、という認識ですね。
AKB:はい、そうです。けれどもそう言うと、怒られてしまいます。いわゆる西洋・白人・男性・健常者を基準としない芸術は、今後の可能性に満ちているではないか、と [注6]。ただわたしは、そうした可能性を探る場合でも、サイエンスに支えられた芸術の方が、より大きな可能性があると思っています。
ART:アートのままで突破するのは難しいから、もう少し基盤的なところで枠を広げないと、戦略的に…。
AKB:という感じはしているんです。
ART:なるほど。
AKB:サイエンスをベースにした芸術、サイエンスと共同した芸術の強みは、新しさの衝撃と共有可能性が両立するところにあると思っています。一般の人のイメージとは違って、サイエンスの研究者は現実をよく知っておられるし、考え方も芸術家より柔軟だと感じます。また芸術よりも選べる手段が多いと思います。これからますます、サイエンスを学んだ人がアートもやる、というのが重要になっていく、と思っています。
ART:それは秋庭先生が年来、ご主張されていることですよね。ご著書『あたらしい美学をつくる』の個人的な「あとがき」にもありましたが、アート志向の人こそ数学や自然科学を学ぶべきだし、理系の人がアートを自分と関係がないと思わずに、ちょっと首を突っ込んでみてください、というのがご持論ですよね。
AKB:はい、そうです。ありがとうございます。実際若い人たちを見ていると、境目なくアートとサイエンスを往き来している人がかなり増えていると思います。またそういう方々はポテンシャルが高いので、さまざまな方面の人たちと協力しながら、レベルをあげていくことができるのではないかと思います。若い人たちへの期待みたいな話になってきましたが、個人的にはそう思っています。
アートへの接し方
ART:ご著書『絵の幸福』のなかで、鑑賞する態度として、「これは何言ってんのかワカンナイ」とメッセージをいちいち受け取ろうとする人がいるけれど、そういう必要はないのだよ、と書かれていました。しかしわたしは、どんな絵を見ても、何が言いたいのか、ここをこうしているのは絶対何か意図があるだろうと、つい一所懸命考えています。そのうちに、だんだんそういうことじたいが(自分なりのわかり方ではあろうとは思いますが)面白くなってきているので、作者の意図は気にしなくてよいと書かれているのを読んで「あれ?」と思いました。でもそれが、「たったひとつの伝えたいメッセージを受け取る」という問題であれば、たしかにそれは、つまらないですよね、別に正解があるわけではないので。ただ、何が言われているのかを一所懸命考えること自体は、わたしはとても貴重な体験だと思うのですが、どうでしょうか。
AKB:はい、そうです。とても大事です。ただそれが、正解を教えてくださいとか、正解が分からないと作品が分かったことにならないと思うと、疎外感を味わうというか。芸術が苦手という方は「ワカンナイから」とおっしゃるんですが、わたしは分からなくてもいいと思います。いわゆる正解が分からなくてもいいので、リラックスした感じで見ていただけたらなあ、と思います。芸術に対するリアクションというのは多様であるべきで、いろんな人がいろんなことを考えられるのが芸術のいいところだ、ということです。答えがひとつしかなく、それを受け入れるか受け入れないかの態度決定を迫るような作品ではダメだ、ということです(それではプロパガンダです)。それは右だろうが左だろうが同じです。
ART:人工生命だと学会に行ってもアート系のセッションがあったりしますが、著者がそこにいるのに作品についてあれこれ言っていると、「へえ、そうなんですか」と感心されたりします。
AKB:いえ、それで正しいと思います。そうやってあれこれ言うのが面白いんだと思います。お金を払って展覧会に行く人は、その場でわからないと損した気になるのかもしれませんが、専門家がやっていることは難しいのが当たり前で、数学でもスポーツでも、ほんとうのところは分からないと思います。ですが芸術の場合は、同じように専門家がやってることなんですけど、作者の考えていることが分からないと怒られてしまうんですね。それよりも、自分で勝手に楽しんで貰えばよいのでは、と思います。
SK:中学1年生のときにステレオを買ってもらって、FMが聴けるようになったんです。それで面白いのでよく聴いていたのが、「現代の音楽」という番組(1957-)です。弟が小学生で、わたしが中学1年生でした。なんにも知識がなくて、でも聴いているとすごく面白いんですよね。で、二人で笑ってたんです。今から思うとそんなふざけた聴き方しててよかったのかな、って…。
ART:どんなジャンルの音楽を聴いて笑うんですか。嬉しくて笑う?
SK:いえ、聴いたことのない音楽で、とにかく面白かったんです。ふざけて演奏してるのかな、と思って。
AKB:それは正しい反応と思います。わたしも船山隆さん(1941-)が解説のとき、ときおり聴いていました。現代音楽で、シーンとした中に、急にドカーンとか、ピロロローンというような音が続いたりすると、子供としては可笑しいと思うんですよね。
SK:あまり説明をしない番組でしたから。
AKB:笑うというと不謹慎な感じがするかもしれませんが、初めはそれでもいいと思うんです。(演奏会で笑ってはもちろんいけませんが)そういうのは余裕のある態度だと思います。何かこう、正解を知らなければ、と追い立てられた態度ではなくて。
ART:音楽も、業界がなんだか収束しているように見えるのがすごく嫌ですね。クラシック業界でも、クラシックの若い人たちが新しい音楽をつくると、それはクラシックではない、などという理由で追い出されがちな雰囲気があるようです[注7]。音楽を演奏する人は、ああしなければ、こうしなければ、という一本の道があって、それにしたがって上達していかないとダメだというのも変です。
ひとつ面白い話があります。フランク・ザッパ(1940-1993)というロック・ミュージシャンがいます。半分伝説なんですけれども、あるバンドのことを「ビートルズよりいい」と言ったんですね [注8]。それは、お父さんが三人の娘たちにさせていたバンドなんですが、お父さんは、他の音楽を聴かせずに、「自由にやりなさい」ってさせていたようです。そのバンドを聴くと、実に間が抜けているんです。なんだかズレていて、すごく心地よいんです。いい感じで。ほんとに珍しいと思うんです。音楽をしようと思ったら、楽器の持ち方を覚える、楽譜を覚える、コードを覚えるとかやっていくのに、そういう訓練なしで演奏していて、妙に魅力があるんですね。それはほんとうに奇跡的です。何をするにしてもまず通るべき道があって、そこから少しでもはずれるとおかしいと言われてしまうのが普通ですから。ほんらいのアートというのは、完成品を目指すようなものではない、こういうバンドのようなものなのではないでしょうか。
アートとファッション
ART:補足的な質問ですが、わたしは色に敏感で、ファッションも気になってしまうのですが、街を見回してもほとんど黒、黒、黒…ですよね。いまユニクロなんかもすごくデザインが発展していて、実際すごくこなれてきているとは思うんですが、みんな同じような格好をして、かっこいいと思っている。それが気持ち悪くて仕方がないんです。むかし権威主義的国家などでみんなが同じような格好をしていたのを見て気持ち悪い、ゾッとしていました。われわれは自由に服を着ることができるのに、と。いまは見渡すとみんな黒ばかり。『ファッションの哲学』という本[注9]によれば、そこで起こっているのは「自由と平等の対立」だそうですが、それで言えば、「平等」が圧倒的勝利をおさめている。いや、そんなことは関係ない、自分は着るものなんて別にどうでもいい、自分は興味ないと言っても、ユニクロを選んでいる時点ですでに社会的・経済的にコミットしているので、自分は中立だとは言えないのだと…。
AKB:その通りですね。特に若い人にそうした傾向があります。まあ、展覧会のレセプションでも、アート関係者は黒しか着ていないと言う現象がありますけれど。
ART:もちろん、一昔前に遡れば、コム・デ・ギャルソンなどが喪服的な黒を…その前もシャネルの黒とかありますが [注10]。2、30年前、アーティスト風の格好いい人は上下とも黒だったんですが、いまや全員そういう感じで…。あれが気になってしようがない。なんで自由な色を好きに着ないのかな、と。
AKB:ベッヒャーというドイツの写真家夫妻がいて、類型学的な写真作品を残しているんですが、ハンス・エイケルブームという写真家が、それと同じような面白い作品(「フォト・ノート」というシリーズです)をファッションに関して作っていて、日本でもよく紹介されています。同じR.ストーンズのベロ出しTシャツを着ている人だけを集めてひとつの作品にしたりしています(次のサイトなどで見ることができます)。
https://artscape.jp/report/review/10163355_1735.html
ART:ファッションも、美術館で作品を見るのと同じような感覚で楽しむことができますね。古着屋さんも。ひとつひとつのディテールに、ここはこうしている、という意図があって、それが面白いですね。
AKB:アートとファッション、どちらが社会を動かす力が大きいかというと、ファッションの方が大きいと思います。ファッションについて考えることは、やはり大事だと思います。ファッションも情報学部で教えればいいんじゃないかと思います。
ART:授業で、進化的アルゴリズムをインタラクティヴにやるような手法を紹介したあと、学生さんに、「これを使って、自由に、好きなことを考えてください」と言ったら、ファッションを選ぶ人が多いですね。「こういうシャツとこういう上着をこのように表現して用意しておいて、アルゴリズムがそこから組みわせを提示して、その中から気に入ったものを人間が選んで、ということを繰り返すような感じ。あとは料理ですね。材料を組み合わせてふつうは思いつかないようなトンがった料理ができるとか。
AKB:コスプレやってる人とかいるのかもしれませんね。
アートのこれからについて
ART:コロナ状況で、アートの存在意義がどうこう言われています。もちろんそれは正しいんですけれども、もっと根本的な問題ではないかと思うのです。役立つかどうかなんて、そんなのは愚問です。人間のアイデンティテイを包摂するものに対して「それは役立ちますか」などと聞くでしょうか? そういう気持ちなんですね。
そのあたり、今後に向けて、アートの、あるいは情報の観点から行うアートの意義でもいいんですが、これから特に情報技術あるいは人工知能などが社会のなかで重要になっていきますけれども、そこにおけるアートのポテンシャル、可能性、期待などを、ひとつ話していただけますか。
AKB:そうですね。そんなに変わったことを考えているわけではありません。AIやロボットをつくることは生きものをつくろうとすることと似ていると思います。少し前に「AI美空ひばり」が話題になって、あれは冒涜だとかいろんなことが言われたんですけれども、倫理的な問題は考えなければならないとして、ああした生きているように見えるもの、自然に近いものをつくるというのは、人間の夢だと思いますし、それが人間を知ることにもつながっている。ロボットをつくる人、AIを研究する人、それに関連するいろんな技術に関わる人、情報学部・情報学研究科に来るような学生さんは、みなさん究極的には、生きているとはどういうことか、生命とは何か、という問題に行き当たると思うんです。
ART:工学は基本的に創り出すものだし、情報学研究科が得意なAIは「生成系」で、すごく実用的なものから、人間のアートと区別がつかない非常にクリエイティブなものだって作り出していますよね。
AKB:そう思います。ただそれを、生きていることへの反省につながるようなものにしていただけると、ありがたいかな、と思います。芸術が社会に貢献するというと、みなさん社会問題をテーマとして扱わなければならないというふうに思ってしまうみたいなんですが、芸術はそうした社会問題について直接訴えることには向いていないと思っています。それよりも、(くどいですけれども)生命とは何か、生きているとはどういうことかを考えさせることで、社会に貢献できるのではないかと考えています。
ART:しかし、ソーシャリー・エンゲージド・アート、それに地域芸術祭などを考えると、芸術は必然的に社会問題に結びついていきそうですが、どうなのでしょう。
AKB:芸術と社会の関係については、いろいろと難しいところがありますが、芸術が芸術になるためには、一度社会から切り離されなければなりませんでした。もともとは宗教芸術だったり宮廷芸術だったりして、それぞれの宗教的・政治的信条が芸術を通じて社会に与える効果を意図していたものです(対抗宗教改革など)。それに反対すれば罰せられることもあったでしょう[注11]。しかし、いまわたしたちがいろんな種類の芸術を並べて楽しめるのは、それが政治、宗教、社会的なものからいったん切り離されたからです。けれどもいま、社会、政治あるいは宗教の方に、芸術が戻って行っている。そうなると芸術は、芸術の基準で裁かれるのではなくて、ふたたび社会や政治、宗教の基準で裁かれるように、どうしてもなってしまいます。それで炎上してしまう。
ART:やはり、「アートは特別扱いする」ということを絶えずやっていないと、そういうところに吸い込まれてしまうんですね。
AKB:はい、そうです。そうしておかないと、さきほどの話に戻りますが、社会の基準にあわせて、善いこと、ポリティカルに正しいことをやらなければならない、ということにもなります。ですから、ある程度の中立性を保つためには…
ART:アートを「問題解決」みたいなものにしない方がいい、というわけですね。
AKB:はい、そうです。わたしが考えているのは、人類の幸福に資することを目指す場合でも、直接社会の問題にコミットする、というのではなくて、もう少し人間の存在の根っこにあるものに働きかけるような作品をつくってほしい、ということです。それは普遍性があり、そのときどきの社会に振り回されなくて済むと思います。
SK:社会や政治に振り回される、というのは、社会が情報化してしまったのがひとつの原因でしょうか。
AKB:それはあると思います。作家さんも、どうしてもネット社会のなかで生きていかざるをえないので、たいへんです。芸術で社会の問題を訴えることは正しい、だからみんなもわかってくれるはずだ、と思って作品を出してしまい、ネットでさんざんに叩かれる、といったこともあります。
ART:やはり、情報学研究科などでサイエンスと結びついて、世の中に出ていくのがいちばんいいですね。アートだけでふらふらと行ってしまうと、すぐに叩き潰されてしまう…。
AKB:はい。そう思います。
AIでアートの創造性を
SK:最後に、さきほども少し出ていた、「AIアート」についていくつか質問をしたいと思います。まずAIアートとはどのようなものですか.
AKB:日本でのAIアートは、人間が制作するアートの秘密(どういうルールで制作されているのか、芸術家の創造性とはどのようなものか)を解析し、それをAIにやらせるため、さらにはそうして得られた知見をもとに人間ではできないようなアート(指が20本はないと弾けない鍵盤音楽とか)をAIで創造するために始まりました[注12]。美学者の川野洋先生が先駆的な仕事を1960年代にされています(https://ja.wikipedia.org/wiki/川野洋)。さらに川野先生は、そうして得られた知見や技術を人々に公開し、誰もが創作活動を行える時代をもたらすという解放的思想も持っておられました。
欧米でも初期には、絵を描くAIといわれたアーロンをつくったハロルド・コーエンが、アーロンを「アーティストの創作過程や人の創造性の働きへの理解を深め、創作活動に対する新しい洞察を得る」ための手段と考えていた一方で、そのほかのコンピュータ・アーティストは、「人が関与しない数理的な美しさ、人の外側にある機械の美学を追求」していた(徳井直生『創るためのAI−機械と創造性のはてしない物語』株式会社BNN, 2021)ので、同じですね。人間の制作支援、加えて人間の限界を超えた作品制作という二つの柱は、基本的にはいまも変わっていないと思います。
人工生命(A-LIFE)の分野では、すでに以前から、芸術にとって重要な「創造性や自己参照性、あるいは欲とか遊び」といった「身体性の無意識」に触れるものを技術的に組み上げていくことで、意識としてのAIを超えていくことを試みていました(池上高志+石黒浩『人間と機械のあいだ−心はどこにあるのか』講談社, 2016, p.210)。それも忘れてはいけないと思います。
SK:次に、人間からAIへとアートのミームが継承されるということは考えられるでしょうか.
AKB:厳密に科学的な意味でミームが「継承」されるかは、わたくしにはわかりません。ミームという考えそのものに慎重な意見を述べる人もあります(アレックス・メスーディ『文化進化論−ダーウィン進化論は文化を説明できるか』(野中訳)NTT出版, p. 71、中尾央『人間進化の科学哲学−行動・心・文化』名古屋大学出版会, 2015, p. 59)。ただ、さまざまなスタイルが人工物を介して時代や地域を超えて伝わっている様子を見ると、あたかもそうしたスタイルが、自らを生き延びさせるために人間作家や人間社会を利用している(人間の側も自らが生き延びるためにそれらを利用している)と思われてくるのもたしかです。
それとは別に、G.クブラーは、『時のかたち』(1962)のなかで、あらゆる事物は過去の事物が抱えていた問題に対する解答として現れると同時に新たな問題を生み出す流れ、すなわち開かれた「シークエンス」であるとし(解答が出尽くして可能性を失ったものは、閉じた「シリーズ」とされます)、ひとつの事物は本来出自を異にする複数のシークエンス(やシリーズ)から構成された複合体である、といった考えを提唱しました。「哺乳類の場合であれば、その血液と神経は生物学的に見たときの古さが異なっているし、眼と皮膚では系統年代が異なっている」(G.クブラー『時のかたち−事物の歴史をめぐって』(中谷・田中訳、加藤翻訳協力)鹿島出版会, p. 193)[注13]。もしそうなら、そうした問題解決のシークエンスがAIに引き継がれていくことはありうると思います。
SK:(私も含めて)アートに深い興味をもっていない読者もいると思うので,比較のために例を二つ挙げます.これらとAIアートを対比させて説明してくださいますか?
- シンセサイザーへの「打ち込み」で作った音楽。コンピュータを駆使している点ではAIアートと一部共通部分がありますが、こちらはとても手工業的、工芸的だと思います。(日本はテクノポップの頃からの技術の蓄積があり、スタジオミュージシャンのレベルもすごく高いですね。)
- いわゆる聴衆参加型、鑑賞者参加型のアート。コンピュータを用いることは必須ではありませんが、予測不可能性を積極的に使うという点で、AIアートと共通点があるようにも思えます。
AKB:はい、中高生までにDTMやDAWによる音楽制作を経験している学生さんがかなり増えておりまして、そういう人たちが本格的に大学でAIを学ぶと、自然に(勉強の傍ら)作家活動へと進んでいくようです。昔と違い、大きな実機(=楽器)をかつぐ必要もなく、すべてスマホやPCのなかで済んでしまうので、うらやましいです。ただそれだけでは、音楽制作にコンピュータやAIを導入したということでしかなく、そこから生まれた作品をアートと呼ぶかはまた別の問題となります。
また、AIを(その予測不可能性を利用した)アイデア出しのため、あるいは自己研鑽のための道具として使い、それをベースに人力(じんりき)で制作実演する方も多いです。将棋の藤井聡太五冠(?いま何冠でしょうか)とAIの関係に似ていると思います。先に紹介した徳井直生さんの本のセクション・タイトルが、作家とAIのそうした関係を示していてわかりやすいです。「一見関係のないものをつなぐ」「違和感を演出する」「異質さを抱きしめる」「誤用によって価値を転換する」、こうしたことがAIは得意なんですね(以前、日本科学未来館が掲げていた「創造性の5つの源泉」に似ています)。こうした広い意味での「偶然性」を引き込んで、それまでになかったものを生み出そうとすることは、ご指摘のように、観賞者参加型というか、無理やり観賞者を作品の一部としてしまうようなパフォーマンス・アートで行われてきたことの拡張と言えると思いますし、さらには、アンドレ・ブルトンやマックス・エルンストといったシュルレアリストたちが開発したさまざまな技法(フロッタージュ、デカルコマニー、自動筆記など)にもつながっています。
ART:その点について、『絵の幸福』で紹介されていた画家、設楽知昭さんについて思っていたことがあります。冒頭で述べたアートを追いこんでいる3つの原因の中の「新しさに対する強迫」に関連しますが、新しさの限界、オリジナリティの限界といったことに対して、設楽さんは、人形みたいなものを作って、それをフィルムで透写してこうやって描いた、ということでした。ただ描いているとどうしても誰かの画風に近づいてしまうから、それを避けるためにあえてそういうことをやっている、と。ああ、やっぱり、アーティストさんたちはそれぞれそういうことで苦しんでいるんだな、と感銘を受けました。
AKB:ありがとうございます。残念ながら昨年亡くなられてしまったんですが。
ART:「描くとは何か」から立ち戻って…。
AKB:そうですね。そういうところは、研究者と似ているのかもしれません。それまでの研究を乗り越えていくために、どういう道具立てを考えればいいのか、と。設楽さんもまた、そのような道具立てを用いて、意識を超える「偶然性」を引き入れようとしていたのだと思います。
[注]
- [ART] グレイソン・ペリー『みんなの現代アート』フィルムアート社, pp. 159-160で紹介されている、キャリアの初期に新しさを気にしすぎることへの戒め。写真家のアーノ・ミンキネンによる。
- [AKB] 博士後期課程からのわたしの指導教員であった岩城見一先生(京都大学名誉教授)は、早くからその危険を見越して「無責任美学」を唱えていましたが、結局先生の心配していたとおりになってしまったのかもしれません。
- [AKB] 著書がレビューで批判されたりするなどありました。
- [ART] 20年にわたってドイツボードゲームを使って実施している名古屋大学の少人数講義「基礎セミナー:ボードゲームを究める」
- [AKB] Cod.Act (Michel DÉCOSTERD / André DÉCOSTERD)のNyloïd(2013)などが、わかりやすい例になると思います。https://j-mediaarts.jp/award/single/nyloid/
動画はこちらです。https://www.youtube.com/watch?v=f2sMD73fdYM - [AKB] ただそれが芸術と呼ばれるべきものなのかというと、わかりません。これからそうした試みがずっと続いていく過程で、高いレベルにまで到達するということは、ありうると思いますが、従来と同じ意味で芸術と呼ばれることにはそもそも重きが置かれていないのでは、とも思います。
- [ART] 若尾裕『サステナブル・ミュージック』アルテスパブリッシング, 2017.
- [ART] The Shaggsというバンド。ビートルズより良いか、彼女らの曲『Philosophy of the world』を聴いてみてください。https://www.youtube.com/watch?v=hxPsXPCR5MU
- [ART] 井上雅人『ファッションの哲学』フィルムアート社, 2020.
- [ART] 「シャネルの黒」「黒の衝撃」「カラス族」など、ファッションの色彩の変遷については、色彩文化研究会『配色の教科書』パイインターナショナル, 2018の「v-5. ファッションの色彩調和」が参考になります。
- [AKB] もちろん、いつの時代にもなんらかの「表現統制」はありましたし(宗教的あるいは政治的)、もっと苛烈な規制があったことも、みなさんご存じの通りです(第二次大戦中など)。けれども現在の状況は、それらともまた違う意味での視野の狭さを感じます。自分たちで自分たちを追い込んでいくような。
- [AKB] AIに関わるさまざまな芸術については、次のサイトなどをご覧ください。
AI美学芸術研究会 https://www.aibigeiken.com - [AKB] 中谷礼仁「19世紀擬洋風建築とG.クブラーの系統年代について」中尾・三中編『文化系統学への招待』勁草書房, 2012, pp.85-117も参照。