情報学の研究者たちの喜怒哀楽 (関 浩之 情報システム学専攻 教授)
―「喜」喜びを感じる(あるいは最も喜びを感じた)のはいつですか?
―「怒」悔しさを感じる(あるいは最も悔しさを感じた)のはいつですか?
―「哀」悲しさを感じる(あるいは最も悲しさを感じた)のはいつですか?
―「楽」楽しさを感じる(あるいは最も楽しさを感じた)のはいつですか?
1.特別阿房学者
阿房と云うのは,人の思わくに合わせてそう云うだけの話で,自分で勿論阿房だなどと考えてはいない.役に立たなければ何も研究してはいけないと云うわけはない.なんにも役に立たないけれど,おもしろいからいろいろな研究をやってきた.
私は五十になった時分から,これからは役に立たない研究でなければやらないときめた.そうきめても,研究費を申請するとき「この研究は将来役に立つかもしれない」と書くことがある.前職では企業から声をかけて頂き実用化研究のお手伝いもした.しかし,どっちつかずの研究はやりたくない.自分の研究は役に立つと言わんばかりの人の顔つきは嫌いである†1.
前任校にいたとき企業出身の教授でこうおっしゃる人がいた.「役に立つというのはね,先生,あくまで自分の役に立つということです.」私はその高潔な心意気を尊敬した.
2.立腹帖†2
大学に長く勤めていると,腹の立つことが時々起こる.そのようなときは「人間は自分の精神の自由までも他人に貸し出してはならない」というモンテーニュの言葉†3を噛みしめて心を鎮めるようにしている.
3.K先生の想い出
私は大学院生の時分,出来が悪くて指導教員のK先生に叱られてばかりいた.修士課程2年のとき「お前は取り柄がないから会社に行っても出世せんだろう.せめて学位でも取っておけ」と言われ,確かにその通りだと妙に納得して博士課程に進学した.
私が助手になった頃,先生は文脈自由文法を拡張した文法(MCFG)を提唱され,私も共著者にして頂いて論文をまとめたが,先生は,なぜか馴染みの理論分野の研究会でなく自然言語処理研究会で発表せよとおっしゃった.その発表を聞いたある人が,計算言語学(言語学と計算機科学双方の知見に基づき人間や計算機による言語処理の原理を研究する分野)の第一人者であるペンシルベニア大学のArvind Joshi教授の耳に入れた.Joshi教授は先生の名声をよく知っておられたので情報交換すべきであると直感し,先生に連絡をくださり,それがきっかけでこの文法は人間の言語構文をよく説明する枠組みの一つとして参照されるようになった.
先生はその後,ご自身のライフワークである誤り訂正符号の研究と,学務の両方に多忙となられ(60~70歳代でIEEEの論文誌に20編以上論文が採録となる活発な研究活動と並行し,某大学学部長,引き続き別の新設大学の初代研究科長を歴任),文法の研究からは距離を置かれた.そのような折(2002年4月),ハワードヒューズ研究所のシステム生物学者Sean Eddy博士から先生に1950年代のテクニカルレポートを送付してほしいとの依頼があり,先生は家中を捜索して発見し郵送したそうである.これに対するEddy博士からの礼状には,「論文をお送りくださりお礼を申し上げます.先生ご自身はご存じないかもしれませんが,先生のご研究は,小生の研究分野である計算論的分子生物学に大きな影響を与えております.文脈自由文法(CFG)はRNA分子の折り畳み構造の解析に応用されているのです.(中略)先生のご研究がどれほどよく知られ,尊敬されているかをお知らせできたならば幸甚に存じます」と書かれてあった.これをきっかけにして私は,CFGのRNA構造解析への応用時の弱点を克服するため,当時の学生と協力して,1.で触れたMCFGを使った解析法をいろいろと考案した.すると今度はその応用研究の知見が理論研究に還流し,人間の言語(自然言語)構文の記述に相応しいMCFGの部分クラスを見出すことができた.
先生は紙と鉛筆派の領袖としてよく知られていたが,私たち若い研究者や学生には,なぜか「役に立つ研究をせよ」とおっしゃった.「役に立つ」とは「それ自体が深い構造をもっていて,理論か実用化かに限らず,将来の新しい分野に応用可能である」ということであろうかと,今は感じている.
先生は晩年,大阪府内の病院に入院されていた.私は時々,仕事が退けるとお見舞いにうかがった.先生の病室からは生駒信貴山系が望め,室内にはいつもモーツアルトのピアノソナタが静かに流れていた.先生は眠っておられることが多く,私はベッドの傍らの丸椅子に10分ほど腰かけて黙ったまま先生を見つめ,それで一礼をして帰ってくるのである.ある日,いつものように先生を見つめていると,先生は目を開けて私の方に少し首を傾け,口を動かされたが声にはならなかった.先生はその数日後にお亡くなりになった.
晩年の数年間,私は先生に叱られるということはなかった.最後に先生は何をおっしゃろうとしていたのであろうか.もう一度お叱りの言葉を発せようとしていたのであれば,それをお聞きできなかったのは残念である.
4.運慶の鑿
修士課程の頃だから1980年代の中頃,私は関数型言語コンパイラの最適化法に関する研究を行っていた.ある程度の結果が得られたのであるが,先生より根本的改善の余地があると言われた.「もうこの辺でまとめたいのですが」と答えたところ,「ここが研究の争点ではないか」とたしなめられた.そこで,その部分を再考したところ,まるでそれが発見されるのをその形で待っていたかのような美しい結果が得られた†4.私は当初の自分の怠惰を恥じるとともに,この感覚が研究の楽しみの一つなのだろうかと思った.後日談になるが海外論文誌に投稿したところ,私の手法は別の研究者によって既に提案されていることを査読者の一人から指摘された.しかし,上述の根本的改善を行っていたため,その部分の新規性を認められて採録となった.
†1 阿房と云ふのは,人の思はくに合はせてさう云うだけの話で,自分で勿論阿房だなどと考えてはゐない.用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない.なんにも用事がないけれど,汽車に乗って大阪へ行つて来ようと思ふ.
用事がないのに出かけるのだから,三等や二等には乗りたくない.汽車の中では一等が一番いい.私は五十になつた時分から,これからは一等でなければ乗らないと決めた.さうきめても,お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから,三等に乗るかも知れない.しかしどつちつかずの曖昧な二等には乗りたくない.二等に乗つてゐる人の顔附きは嫌ひである.
(内田百閒「特別阿房列車」より.旺文社文庫121-1(1979))
†2 近頃は身体の加減か,年の所為か知らないけれど,あんまり腹が立たなくなった.昔はいろんな事が口惜しくて,無暗に腹を立てた為に,到頭,耳が動き出した.
(内田百閒「続百鬼園随筆」『立腹帖』より.旺文社文庫121-5(1980))
†3 モンテーニュ「エセー」3.10『自分の意志を節約することについて』
宮下志朗「モンテーニュ 人生を旅するための7章」29頁, 岩波新書1786.
†4「よくああ無造作に鑿を使って,思うような眉や鼻が出来るものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った.するとさっきの若い男が,
「なに,あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない.あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを,鑿と槌の力で掘り出す迄だ.まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」と云った.
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した.
(夏目漱石「夢十夜」『第六夜』より.講談社文庫A323(1977))